コラム

# 011 〜 夢が現実に ~

こんにちは、ご無沙汰してすみませんでした。さて、久々にコラムを更新します。

母校の甲子園も決まり プロ野球もキャンプイン いよいよ球春到来ですね。
私がドラフトにかかったのは、昭和52年のことでした。かなり昔ですね~(笑)。
私への誘いは各球団からあったようで、何も知らない私は全てを監督にお任せしていました。当時は博多にクラウンライターがありまして(今の西武ライオンズですね)、もしクラウンライターに指名された時は、母のことを考えて大学進学を勧められていました。理由は横浜から博多までの距離を考えて、大変だろうと監督さんの親心だったと思います。

当時のドラフトはテレビでは1位指名ぐらいしか放送されず、後はラジオで放送されました。当日、我が母校は年に一度の学校行事で鎌倉まで歩く全校ハイキングの日でした。クラスの仲間がラジオを片手に皆で楽しく歩いていました。
放送が始まり、「何位で指名されるのか、また指名されなかったらどうしよう・・・・・」なんて考えていましたね~。
当時は逆指名など無かった時代ですから、一人一人で展開が変わるわけです。
そして1位・・・・・呼ばれず、・・・・・2位・・・・呼ばれず・・・・・・とドラフト会議が進んでいき、仲間達が「マダカヨ! 早く名前を言えよ! 本当に指名されるのかよ!」。皆言いたいことを言いながら楽しく歩いていたこと覚えています。
しかし、ほんとドラフト会議って時間がかかるんですよね~。

ラジオ放送も途中で終わり、みんな爆笑(笑)。
今度は、楽しみも無く鎌倉まで長い道のりを歩きました。当時は携帯など無いですから、指名されれば学校には連絡が入るわけで、鎌倉から学校に戻りました。

着くと監督が「おめでとう!3位で近鉄バファローズだ!!」。 しかし監督も近鉄だけは聞いていなかったんですよ~。不思議ですね~。しかし自分の中では「よしよし」です(笑)。
横浜に住む私には近鉄の情報など知るよしも無く、知っているのは大エースの鈴木啓示さんと私と同じハーフの太田幸司さんだけでした。監督は厳しくて有名な西本幸雄さんでしたが、私の中ではもう決まっていましたから関係ありませんでした。
しかし、それからいろんな情報が集まり、なんと近鉄には12球団を代表する二枚看板の捕手、“
有田さん!梨田さん!“がいたのです!!
「ヒェー! 同じポジションだ」
でも、もう引き返すことは出来ませんでした。

そして、私のプロ第一歩が始まったのです!!
つづく・・・・・